久々に壺をやった/ナレーターについて

周りで Getting Over It with Bennett Foddy をプレイする人が出てきたので久しぶりに自分もやった。が、マウスの不調と思わしき挙動にぶち当たってしまい、良いタイムを出すことができなかった。このマウスの不調をどうにかするべきだ、と試行錯誤していたら、マウスパッドがクソほど汚くなっているせいでうまく動かなくなっていたことが判明。マウスのセンサー部分がちょうど汚れにさしかかるとカーソルの動きがガクガクになる。さっき洗濯機につっこんだので、これでうまくいけばきっと解決できる。

Getting Over Itは製作者であるBennett Foddy自らがナレーターを勤め、プレイヤーと対話する形式のゲームなんだけど、身の回りには割とこのナレーターを切ってしまう人が多く居るらしい。僕はこれは本当に本当にもったいないことだと思っている。

現在においてインターネット上のコンテンツはとてつもない数になっている。製作者は熾烈な競争を勝ち抜くために、既に咀嚼済みかのようなやわらかいコンテンツを生産するようになる。これにより、我々は雛鳥のように口を上に向けているだけでコンテンツの大量消費ができるようになった。どんなコンテンツも一瞬でポイできるようになってしまった。このゲームは、どうやらこのようにして産まれた弱々しいプレイヤーこと我々を苦しめるために作られたものらしい。このゲームは他のゲームとは違い、ただただ苦しく、かなり険しい。それでも挑戦するプレイヤーは存在する。有象無象のアセット群が雑に積み重なったようなステージだが、プレイヤーは挑戦していくにつれてそれに意味を付け出し、ついには険しさの伴う本物の山だと錯覚し、何度も下落しながらも、登頂のために挑戦し続ける。最後に登頂した時、それは本当に素晴らしい体験だったと錯覚するほどに。

というようなことを、ナレーターが教えてくれる。珍しくも、自身についての解釈を自ら伝えてくれる。このゲームに対する反骨精神だけを装備してこの山を登りきるのは恐らく更なる苦痛を伴うだけだ。

自分はこのナレーターこそがこのゲームの趣旨を決定した最も重要な要素だと思っている。単なるクソゲー/苦痛ゲーとは違うと思わせてくれたのはかなり大きい。恐らくなんだけれど、一時期この傾向のゲームが増えたのも上述したBennett Foddyに対する敬意なんじゃないかと思う。良い循環っぽい。

というわけで、ナレーターと共に登らない選択をたいへんにもったいなく思うのだけれど、これを強要するのもなんかアレだしなぁ〜〜むずかしい。作品を押し付けたらよくないし。むずかしい。