日記ってすごいかもしれん

最近はとある人のとあるブログの記事をずっと読んでいる。記事数がかなり膨大で、11年くらい前からずっと定期的な投稿が出来ているように見える。意識的なアウトプットというやつなのかな?その人はWeb系のエンジニアで、所属を意識できるような記事がたくさんあった。へー、ここにインターンに行ってる人なのか、とか、ここで働いてたんだ、とか。その所属での出来事も書いてくれていて、社員との交流だったり、登壇のことだったり、その支援だったり。今はフリーランスになって、週休3日?4日?でゆっくり暮らしているらしい。バリバリな技術記事と共に存在する個人的な記事たちをざっと追うだけでその人の10年間を追体験しているような気持ちになった。

最近自分がブログに熱を入れているのはこの間記事にしたような言語化についての練習が主だけど、側面としては上に書いた人たちへの憧れみたいなところもあったりする*1。僕もアウトプットの方法としてのブログを大事にしていきたい。今はとても楽しいというだけで記事を書いている、もしこれが上手いこと積もっていくのなら、そのうち大きな証跡みたいになるのだろうか。そうなるといいですね。

上に挙げた人のブログとか、そうでなくとも今からは離れた時代に書かれたような文章をインターネット上で見つけるとかなり嬉しくなるよね。その記事が残っていたというアーカイブ的な素晴らしさ、アップデートが不要なプリミティブな考え方、など。小さな身内での事件を記してくれた記事とかは傍から見る分には純粋な読み物として面白く、かつ学びがあることも多い。また、そういう人が未だに文章を書き続けているとなおさら嬉しくなる。「古から今までインターネットのおもしろを支えていたのはこの人だ」みたいな。生き証人みたいでかっこいい。もちろん「自分が深くに潜って文章を発掘したのだ!見つけた!」というdig的な気持ちもあるけど、まぁどうであれ、文章などのコンテンツは基本残ってくれているだけでとても嬉しい気がする。

界隈の人間がなにか行動をした際に「またそういうことをしているのか、一体何度同じ問題を繰り返すのか」と後ろ指を指されている場面を見たのだけれど、そういうのって過去起きた事象を記して後世に伝えなかったその界隈にも多少の問題があるのではないかと思っている*2。そういった当事者意識を持ちたいよね~、という大きな話ではないが、記事を書くことによる副次的な部分としての、もしかしたら何かの肥やしになるのではないか?という小さな意義をほんのちょっとでも良いから感じていきたい。

*1:さらに別の側面として、僕はみんなの文章が読みたくて、であれば表立ってまず自分が文章を書いていったほうが良いよね、という気持ちでやっている。僕よりも文章を書いている友人と話していた時にそういう感じになった。もしみんなが文章をたくさん書くようになったら嬉しいな~

*2:もちろんこの問題は難しい前提で、そういう面もあるよね~くらいで捉えてほしいです